The Death of Edgar 『エドガー王の死』

The Death of Edgar Anglo-Saxon Chronicle (A-text)の975年の欄に記録された古英詩で、エドガー王(在位959-975年)の死をはじめとして、この年に起きた出来事の記録となっている(B-text および C-text にもこの詩のvariantsが記録されている)。

エドガー王はベネディクト会の修道院復興運動を擁護したことで知られ、その治世の間、ヴァイキングによる主だった侵攻もなく、文化的にも繁栄したことから、「平和王」(the Peaceable あるいは the Peaceful)の渾名を持つ。

この詩は、Anglo-Saxon Chronicle に含まれる他の3編の詩(The Battle of Brunanburh, The Capture of the Five Boroughs, The Coronation of Edgar)と合わせて、同一の詩人(963年よりベネディクト会の修道院復興運動を主導したエゼルウォルドかその周辺の人物?)によって作られたものではないかと言われている。また一説によると、韻律や使用語句の特徴から、The Menologium も同じ詩人の作ではないかという(T. Bredehoft, Authors, Audiences, and Old English Verse (Toronto: University of Toronto Press, 2009), pp. 104-45 を参照)。

以下の邦訳は、E. V. K. Dobbie (ed.), The Anglo-Saxon Minor Poems, Anglo-Saxon Poetic Records 6 (New York: Columbia University Press, 1942), pp. 22-24 のテクストに基づく。

 

『エドガー王の死』

  

     この年に、アングル人の王エーアドガールは、

この世にての喜びを終え、

美しく喜び溢れるあの世へと旅立ち、

儚く束の間のこの世での命を擲ちし。暦学を

5   正しく学びし人の子ら、

   地上の人々は、何処にても、

    この世の中にては、この月を

    ユリウスの月と呼ぶ。この月の

    八日目に、人々に宝を分け与う

10  若きエーアドガールはこの世を去りし。その後、若き貴人らの主君たる

彼の息子が王国を引き継ぎし。[1]

彼の名はエーアドウェアルドなりし。

その十日前、栄光ある者、

生まれながらに善良なる司教が、

15  ブリテンより去りし。彼の名はキュネウェアルドなりし

    その後、聞き及びしところによれば、マーシアの

    広く至るところにて、主を称える声の

    地上において弱まりし。神の賢明なる僕の多くが

    追放されしためなり。[2] これ、心の内に創造主への

20   燃ゆる思いを抱く者にとりては、

大いなる悲しみなりし。その後、栄光の主、

勝利の王、天の支配者は

あまりにも容易く軽んじられ、彼の法は破られし。

そしてその後、気高き心を持ち、

25  賢明にして言葉に賢く、白髪交じりの

オースラークもまた、この地より海波を越え、

カツオドリの水浴び場を渡り、[3] 海のうねりを越え、

鯨の故郷を越え、[4] 住む土地を奪われ、追放されし。

そしてその後、天上の

30  天空に星の現われし。この星を厳格にして

    賢明なる者たち、博学なる者たち、

    賢しき詩人たちは、広く彗星(コメータ)

    呼ぶ。[5] 人々の間に、

    主の怒りが、飢餓が地上に

35  広く知られるところとなりし。後に、天の守護者、

    天使らの首領は、これに慰めを与え、

    島民の各々に、大地の恵みによりて喜びを与えし。

   



[1] The Coronation of Edgar によると、973年の戴冠式の際にエドガー王は30歳だったが、彼はその2年後に亡くなった。「若きエーアドガール」と言われているのもこのためである。また、彼の息子とは、次行に述べられているように、エドワード(エーアドウェアルド)殉教者王のこと。彼は即位して約3年後の978年に暗殺され、後に聖人とされたことから、「殉教者王」(the Martyr)と呼ばれる(祝日は3月18日)。即位した時、彼はまだ成人したかしないかぐらいの年齢だったという

 

[2] エドガー王はベネディクト会の修道院復興運動を擁護しこれを大いに促進させたが、彼の死後、主に政治的な理由から、マーシアのエルフヘレが主導する反修道院復興運動が行われ、修道院が解体されるなどした。ここにはこの反修道院復興運動のことが述べられている。Anglo-Saxon Chronicle DE写本の975の欄には、この運動のことがより詳しく記録されている。なお、この運動は、エルフヘレが983年に死ぬと下火になったといわれているF. M. Stenton, Anglo-Saxon England, 2nd ed. (Oxford: Clarendon Press, 1947), p. 449を参照

 

[3] 「カツオドリの水浴び場」とは「海」を表すケニング。

 

[4] 「鯨の故郷」も「海」を表すケニング。

 

[5] 彗星はしばしば不吉なことの起きる予兆と捉えられた。ここでは彗星が出た後に飢饉が起きたとされている