The Fates of the Apostles 『使徒達の運命』

 

 

The Fates of the Apostles 10世紀末の Vercelli Book という写本に含まれる詩で、Elene, Juliana, Christ 並び Cynewulf 作の詩として知られる。12人の使徒それぞれの業績や殉教について数行ずつ簡単に述べた詩で、最後にキュネウルフ (Cynewulf)の名が詩の中にルーン文字をちりばめる形で組み込まれている。詳しい成立年代は不明だが、キュネウルフは恐らく9世紀の詩人ではないかと言われている。この詩の冒頭や終わり近くの言葉からは、死期の近づきつつある老齢の人物の作品のように感じられる。

 

この詩で言及される十二人の使徒は、言及順に、シモン・ペトロ、パウロ、アンデレ、ヨハネ、ゼベダイの子ヤコブ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、アルファイの子ヤコブ、シモン、ヤコブの子ユダ(タダイ)である。新約聖書に描かれた「十二使徒」と人数は同じだが、メンバーが少し異なっている。

 

つまり、十二使徒には含まれないパウロが言及され、代わりに十二使徒のうちの一人であるイスカリオテのユダは言及されない。彼はキリストを裏切った者として崇敬の対象となり得ないためであろう(彼は聖人とはされておらず、彼のための「祝日」もない)。また、イスカリオテのユダの裏切りの後、残った十一人の使徒によってユダに代わる十二人目の使徒として選ばれたマティアもこの詩には言及されない。一方、パウロは十二使徒には含まれないものの、 同時期に活躍した重要な使徒として知られており、本作品の場合のように、アングロ・サクソン時代の作品でもしばしば使徒として言及されている。

 

作品冒頭、注意を喚起するHwæt という言葉から始まり、hu þa æðelingas | ellen cyðdon3行)「いかにかの貴人たちが勲を示したか」と続く辺りは、Beowulfの冒頭を思い起こさせる(Beowulf冒頭についてはこちらを参照)。これに代表されるように、本作品は伝統的な古英詩の語彙やモチーフを豊富に使って作られた詩である。

 

以下の訳は G. P. Krapp, ed., The Vercelli Book (London: Routledge and Kegan Paul, 1932)に収録された本作品のテクストを底本としたものである。訳文に行数を付したが、必ずしも原文を一行一行そのままの順序で日本語に置き換えたわけではなく、あくまでも目安として付けたものである。

 

 

『使徒達の運命』

 

 

  聞け、人生に疲れた私はこの詩を

  悩める心の中に見出し、

  かの光り輝き栄光ある貴人たちが

  いかに勲を示したか、その事績を幅広く集めた。十二人の

5   彼らは、行いにおいて傑出し、主に選ばれた、                   

    人生において敬愛すべき方々。主の家臣達の

    栄光と力と名声、一方ならぬ尊厳は、

    広く世界中に知れ渡った。

    賽子が聖者の一団に示した、

10  彼らがどこで福音を説くべきか、                                   

    人々の前で話をすべきかを。[1] 熱烈果敢な

    ペトロとパウロは、ローマの町で

  ネロの過酷な策略故に

  命を落とした。彼らの使徒たる姿は

15 人々の間で広く称えられている。                                   

  同様に、アンデレはアカイアで

  エギアス故に命を危険にさらした。

  彼は人々の王の力にも、地上のいかなる者の力にも

  怯まず、永遠に続く命、

20 恒久の光を選んだのだ、[2]                                             

  戦いの後、戦いに勇敢な彼が

  群衆の騒めきの中で十字架にかかった時に。

   聞け、我々はまた、ヨハネの徳について

  聖書に詳しき人々が語るのを聞いた。

25 我の聞き及びしところでは、彼は                                   

  親族故に、[3] 男性の姿をした者としては、栄光の王、

  天使の主、人類の父がかの女性の子宮を通じて

  この世にいらして以来、[4] キリストにとって人々の中で

  最も愛すべき者であったそうな。

30 彼はエフェソスで常に                                                 

  人々に教えを説き、後にそこから

  天への道、素晴らしき喜び、

  輝かしき住処を求めた。旅立つことを躊躇わぬ彼の兄

  ヤコブも間もなく、ユダヤ人のもと

35 ヘロデ王故に、剣の一撃により、                                   

  命から離れ、肉体から魂を

  引き離さなければならなかった。フィリポは

  アジア人のもとにおり、そこから十字架上の死により

  速やかに永遠の命へと向かった、

40 ヒエラポリスにおいて、武装した者達により                     

  十字架に架けられた時に。

   まさに、戦いに長けしバルトロマイが

  ユダヤ人のもとに赴いたということは

  広く知られた出来事となった。

45 アルバヌムの異教徒であり邪悪な                                   

  アストリアスは彼の首を切り落とすよう命じたのだ、

  彼が異教の習慣に従い、偶像を崇拝しようとしなかったがために。

  彼には偽りの神よりも、天の喜びの方が、

  心地よき(天国での)生活の方が望ましきものだった。

50  同様にトマスもまた、勇ましくも                                 

  インド人たちのいる僻地へと赴き、

  そこで、聖なる言葉を通じ

  多くの者達の心を啓蒙し、また勇気づけた。

  心勇ましき者は、人々の前で、

55 主のお力による素晴らしき力により、                              

  王の兄弟を目覚めさせた。これにより、

  若く勇ましく、その名をガドという彼は

  死より蘇生した。彼(トマス)は後に、戦において

  自らの命を民のために擲った。異教徒の手による

60 剣の攻撃が彼を滅ぼした。この聖人は人々の前で                

  傷つき斃れた。その場所から、彼の魂は褒章として

  栄光ある天の光を求めた。

   我らは聖なる書物を通じ、

  エチオピアの人々に真実が、

65 神の高貴なるお力が示されたことを知っている。                

  輝かしき信仰の夜明けが訪れ、この土地は

  マタイの偉大なる教えにより清められた。

  彼を残忍なる王イルタークスは

  怒れる心により武器にて殺した。

70  我らは聞いた、ヤコブがエルサレムにて、                     

  僧侶たちの前で死んだということを。

  毅然とした聖者は、悪意に満ちた棍棒の打撃により

  死に至らしめられた。彼は今、戦いへの報いとして、

  栄光の王と共に永遠の命を享受している。

75  かの二人、(布教の)旅に進んで乗り出し、                    

  戦いに勇ましきシモンとタダイは、

  盾のぶつかり合う戦いに恐れをなすことなく、

  ペルシア人の土地を訪れた。二人ともに、

  最期の日が同じ日に訪れた。この貴人たちは

80 敵意に満ちた武器により受難し、                                   

  命が肉体より分かたれ、虚しい宝物、

  無為な宝全てから離れた後、

  栄光の報酬を、真の幸福、

  死後の喜びを求め旅立った。[5]

85  このように十二人の高貴なる心持つ                              

  貴人達は最期を迎えた。天の家臣達は

  不変の栄光を心に抱いていたのだ。[6]

   さて、この詩に述べられたことを

  気に入った方にはお願いしたい、心悩ます私に

90 平穏と慰めという救いがあるよう、                                

  かの聖人の一団にお祈りくださるようにと。道すがら、

  恵み深き友を私がいかに必要とすることか、

  肉体を、この世に属すべき亡骸を

  蛆虫の喜びとして遺し、遠き家、

95 未知なる住処へ孤独に赴かねばならぬ時に。                                 

   詩歌を愛好する

  知性に優れたる者は、ここに見出し得るであろう、

  誰がこの詩を作ったかを。[7] F(「富」の意の文字)は(我が名の)最後に位置す。

  貴人達はこれを地上にて享受す。しかし、この世に住む彼らは、未来永劫(これと)

100 共にあるわけにはゆかぬ。[8] W(「喜」)は、                                

      U(「我々の」)祖国において色あせ、

    やがて肉体というはかなき宝は腐敗す、L(「海」)ですら消失する如くに。

      C(?)とY(?)とは、夜に苦心して

    力を発揮す。[9] 彼には王(神)への奉仕という

105 義務が課されている。これで誰(の名)が                        

    これらの言葉の中に示されているか分かるであろう。

      この詩が気に入った方には忘れずにいていただきたい、

    私のために救いと慰めとを

    お祈りしてくださることを。私はここから遠く、

110 孤独に別の場所に住処を求めねばならず、                        

   (そこまで)旅しなければならない。この世を離れたその場所が

    何処にあるのか、私自身には分からない。(死後の)行き先、

    住処、家郷は、聖なる魂を持つ者以外には

    誰にとっても未知のものである。[10]

115   神に一心に声を挙げて祈願し、                                   

    かの輝かしき存在に対し我らの祈りを捧げん。

    かの地へ、至上の喜びに満ちたかの高みの家へ

    行くことが出来るように。そこにては、

    天使達の王が清き者に対し、

120 永遠の報酬をお与えくださる。今現在、偉大にしてよく知られたる 

    彼の栄光は際立っているが、そのお力は、全ての被造物に対し、

    色あせることなく永久に続くのだ。了

 



[1] 誰がどこに布教に行くかを賽子を振って決めたという意味。タキトゥスの『ゲルマーニア』に触れられているように、古代ゲルマン人の間では賽子を使った占い等が行われていたようだが、アングロ・サクソン人の間にも同様の習慣が残っていたものと思われる。聖アンドルーを扱った聖人伝の古英語版においても、使徒達が賽子によって各自の布教地を決めたとされている。独自の文化に基づいて本来のキリスト教文学の伝統にはない詳細が付け加えられた一例として興味深い。

[2] 「永遠に続く命、恒久の光を選んだ」というのは、「神のもとへ行くことを選んだ」、つまり、「死んだということ。

[3] ヨハネはゼベダイの子ヤコブの弟であることから、「親族故に」というのは、兄弟ともにキリストに従う使徒であることが意識された言葉であろう。

[4] 「栄光の王、天使の主、人類の父」とはキリスト(=神)のこと。「かの女性」とはマリアのこと。

[5] 「栄光の報酬、真の幸福、死後の喜びを求め旅立った」とは天国に行くことを意味する。

[6] 「不変の栄光」とは神と共にある栄光のこと。

[7] これ以降、古英語原文には所々ルーン文字が組み込まれており、それを並べ替えるとCynewulfという詩人の名前になるようになっている。ここで誰がこの詩を作ったかが分かるだろうと述べられているのは、ちりばめられたルーン文字が自らの名前を示すものであるということを仄めかした言葉である。ここではルーン文字が表示できないので、訳文中には対応するアルファベットを示した。

[8] つまり、「富」はいつか失われるものであるということ。たとえ生きている間は失われなかったとしても、死後にあの世に持っていくわけにはいかないということまでが意識された言葉。

[9] この辺りは写本の文字が消えている部分があったり、またルーン文字の意味するところがはっきりしないこともあり、全体として何が述べられているのか定かでない。

[10] 聖なる魂を持つ者」は天国に行くことが確実であるが、それ以外の人はどうなるか定かでないということ。