H Dropping

H Dropping とは、語頭の /h/ 音を落として発音することで、イギリスでは多くの方言において認められる発音上の特徴である。

教養層の用いる容認発音(RP)や、河口域英語(Estuary English)、イーストアングリア方言および Geordie と呼ばれる、ニューカッスルを中心とするタイン川沿岸地域方言においては、(アクセントの置かれない機能語等の場合を除き)H Dropping は基本的に起きない。

これに対し、ロンドンの下町言葉であるコクニー(Cockney)をはじめ、労働者階級の用いる階級方言においては、H Dropping が起こるのが一つの顕著な特徴として知られている。そのため、H Dropping が見られる英語は、教育の程度や社会階層の低さと結び付けられて捉えられることが多い。

以下は、地域的方言について、H Dropping の起きる方言と起きない方言の用いられる地域を示した地図(Wikipedia英語版、'Phonological history of English frivatives and affricates' より転載)。

 

 

George Bernard Shaw の Pygmalion に基づき、ミュージカルや映画になっている My Fair Lady には、ロンドンの労働者階級出身の少女イライザの話すコクニーを、ヒギンズ教授が社交界で通用する標準的な英語に矯正すべく訓練するという有名な場面がある。この中で、イライザの使うコクニーの H Dropping のことが扱われている。

以下はその場面を含む動画。2:10 付近からはヒギンズ教授が、h から始まる単語の連発される以下のような文を使って、H Dropping を矯正しようとしている。

    In Hertford, Hereford and Hampshire, hurricanes hardly ever happen.

2:22 付近では、イライザがこれを音読しているが、そこでは、H Dropping の結果、上記の文が以下のように発音されている。

    In Ertford, Ereford and Ampshire, urricanes ardly hever appen.

この動画の中で、イライザは、語頭の h を全て落とす一方で、 本来は h が付いていない ever に h を付けて hever と発音している。これは「過剰訂正」(hypercorrection)の一種で、実際に、 H Dropping がよく起きる方言等においては、本来ないはずの h を語頭に付けるという過剰訂正がよく見られる。以下はその一例。

      apple /hæpl/

      almond /ha:mənd/

      empress /hɛmprəs/

フランス語話者が話す英語においては、この種の過剰訂正が行われることがよくある。フランス語では語頭の h を発音しないため、英語においても語頭の h を落として発音する癖のある人が多くいることから、そのような間違いを犯さないようにと意識しすぎて、本来は h のない語にまで h を付けてしまうことがあるのである。

なお、以下の英単語は、発音しない h が語頭にあるが、これらはみなフランス語からの借用語で、語頭の h を発音しないフランス語風の発音を留めたものである。フランス語話者はこれらの語についても、過剰訂正により語頭の h を発音することがよくある。

      heir, honest, honour, hour

一方、historic, hostel, humble 等の語もフランス語借用語で、古くは語頭の h は発音されなかった(より古くはこの h 自体綴られなかった)が、やがて綴り字に従った発音が普及し、今では h を発音するのが標準的な発音となっている。

An historic day などのように、現在でも時に historic の前に an を付ける人がいるが、これは h を発音しなかったより古い時代から持ち越された伝統に従った言葉遣いだと言える。Longman Pronunciation Dictionary (3rd ed.) によれば、historic という語については、イギリス人被験者の 94%は語頭の h を発音するが、残り6%の人は今でも語頭の h を発音しない。 

同じくフランス語借用語である herb については、19世紀まではフランス語風に語頭の h は発音されなかった(より古くは h の付いていない綴りが使われていた)が、やがてイギリスでは綴り字に従い語頭の h を発音するのが一般的になり現在に至っている。一方、アメリカでは現在まで h を発音しないのが一般的である。上記 LPD (3rd ed.) によると、アメリカ人被験者の90%は herb を /ɝ:b/、10%は /hɝ:b/ と発音するという。

この他、forehead /fɒrid/ や perhaps /pəræps/ などの場合ように、語頭ではなく語中における H Dropping もある。LPD (3rd ed.) によると、forehead については、被験者のうちアメリカでは12%、イギリスでは35%が H Dropping の起きた発音をするが、若い世代ほど H Dropping を起こさない発音をする傾向があるという。

perhapsについては、H Dropping の起きた発音は informal なものとして知られているが、例えば、トルキーンの Hobbit の中に登場するトロールも、以下のように、仲間のトロールとの会話においてH Dropping の起きた形の perhaps を用いている。

"P'raps there are more like him round about, and we might make a pie," ... (J.R.R. Tolkien, Hobbit (1937; 5th ed., repr. 2006), p. 44).