Vaingloary 『うぬぼれ』

Vainglory は傲慢の罪(superbia)を戒めるような内容の詩であり、アングロ・サクソン時代のキリスト教的世界観と密接に関わる作品である。傲慢は七つの大罪の一つで、その中でも全ての罪の根源とされ、最も重大な罪とされた。アルクィンも『美徳と悪とについての書』の中で傲慢の罪について大きく扱っている。

本作品は、俗人、中でも特に武人に対して傲慢の罪を戒める内容となっており、酒宴における boasting や口論の類が傲慢の一つの表れとされている。酒宴における boasting や口論は、『ベーオウルフ』の中にも描かれたゲルマン人の武人社会における一つの伝統であるが、本作品ではそのような行為をする者はやがて地獄に落ちる「悪魔の子」とされ、伝統は完全に否定されている

以下の拙訳は、G.P. Krapp and E.V.K. Dobbie (eds.), The Exeter Book, Anglo-Saxon Poetic Records 3 (New York: Columbia University Press, 1936), pp. 147-49 に基づくもので、「古英詩 Vainglory 研究 ― 解説、テキスト、および邦訳 ―』という題で『横浜市立大学論叢』人文科学系列59.3 (2008), 199-225ページに掲載された拙論の中の邦訳を改訂したものである。

 

  『うぬぼれ』

   聞け、遠き昔、我に年老いし賢人、
   賢しき使者、数多の神秘語りたり、
   預言者の教えにつきて、言葉の蔵開きたり、[1]
  書物に詳しき(おのこ)預言者の言葉(開陳したり)。

5  而して爾来、真()
   この詩(によりて神ご自身の子を感ずること能うようになりし、
   街にて歓待すべき客人(またより弱き者の
  罪の内に盾(=護り)奪われたるを知ること能うようになりし。[2]
  各々方、このこと(容易く解するやも知れぬ

10 この儚き世にありて
   己が精神に対し心の傲慢を退け、
   生涯鯨飲を退くる者は。
   数多の者ども寄合の席に着きたる時、
   葡萄酒溢るる街にては、自惚れ、戦を好む者達が

15 酒宴の席に着き、真実の詩歌い、
   言葉交わし、定めんとす、
   館の内の何処の戦場にて
   人々に相まみえんやと。
[3] 葡萄酒が
   人の心熱くせん時[4]、歓声上がり、

20 人々の間に叫び声上がり、様々な話し声が

  高らかに響く。(その際の)人の精神
  二種に分つこと能う。貴人達(の心)も

   一様ならず。ある者は、気持ち大きうなりて、
   強き態度に出、節度なき高慢の心、

25 彼の内に広まる。これあまりにも多くの者の身に起こることなり。
   なべての悪しき心は満たさるる、
   悪魔の放つ飛矢にて、誑かしの策略にて。[5]
   彼喚き叫び、自らを誇る、
   より優れし人より遥かに多くを、

30 (そして)誤解す、なべての者彼の所作を
   勇ましきものと見んと。これとは異なりしことにならん、
   彼この罪の末(いかなることになるかを)見ん時には。
   彼強き態度に出、欺き、まやかしの
   多くを企み、心惑わす槍繰り出し、

35  雨霰と(惑わしの矢)放つ ―彼罪の意識知ら
   (己が)行いし悪行に対し
― 彼嫌う、己より優れ
   貴人を妬みの故に、[6] 仇為す飛矢放ち
   城壁破壊す、創造主が彼に
   守ること命じし塁壁を。[7]

40  彼宴の酒で心大きうなり、言葉巧みに、
   (挑発の)言葉放ち、葡萄酒に酔いて、

   口論の口火切らんとす、荒々しき気色にて、
   嫉妬に燃え、傲慢に満ち、

  邪悪な(悪魔の)策略に乗り。今や汝(彼の正体)しること能う、 

45 かようなる家臣の

   町に住みたるを見たれば。この
   短き言葉により知るべし、彼は悪魔の子なり、

   人の皮を被りはすれど、彼
(な生涯送り、
   その魂は地獄へ向かう、神を、栄光の王を、

50 知らぬがために。先の賢者、歌いたり、
   詩作に長けし者、この詩歌いたり。
   「この辛き世にて自らを

   傲慢の故に高揚させ、

   誇りにて高めん者、低くされ、

55 貶められん、死の後に、
   罪に縛られ、蛇に囲まれ暮らすことにならん。
   かつて遠き昔に神の国にて起こりしことだが、

   天使らのうちに傲慢の心生じ、

   広く知られたる問題の(生じたり)。(彼等)不和招き

60 荒々しき遠征(し)、天を汚し、
   彼らが優れし(主)を侮りぬ、彼等、謀反に考え及びし時、
   そして、不法にも、栄光の王より、
   力強き者より、玉座を奪わんとし、

   而して、天の喜びある土地を、

65 彼等自身の支配のうちに置こうとせし時。被造物の父は、彼らに対し
   戦にて抗したり。彼等にとりてこの戦あまりに厳しいものとなりし。」[8]
   左様にはならず、

   この世にて謙虚に生ける者にとりては、
   一族の各々に対し常に

70 人々のうちに平和を保ち、敵、

   しばしば彼に危害与えし者、(そして)

   この世にて悪意に満ちたる者をも愛す者にとりては。彼天の喜びのうちに、

   聖なる者達の希望のうちに、天使たちの土地へ

   昇り行くこと能う。左様にはならず、これ以外の輩にとりては。

75 彼等傲慢の内にありて怠惰な行いのために

  罪のうちに生くる。  栄光の王の下、(彼等への)報い

   (謙虚なる者達と)同じに非ず。これにより知るべし、
   汝、謙虚なる貴人、軍勢のうちの、
   (謙虚なる)家臣に会わば、常に彼と、

80 客人にしてこの世の喜びたる神ご自身の子の

   共にあるなり、先の賢者が我に偽りを申したのでなければ。

   故に我等常にありがたき忠告に心配り、
   いつ何時も心の内にて思うべし

   最上の栄光の主を。アーメン。




 

[1] 「言葉の蔵を開く」とは、含蓄のあることを述べるという意味で、古英詩でよく使われる言い回し。

 

[2] 傲慢の心は、他のあらゆる悪徳を招くものとされることから、傲慢になることは、様々な悪徳に身をさらすことにつながる。このことが、ここでは、盾を奪われた無防備な状態に喩えられている。『ベーオウルフ』の1740-47行では、高慢の心が芽生える時には、魂の番人が寝ているとされているが、ここにも似たような考え方を見て取ることが出来る。

 

[3] 酒宴におけるboastingflyting が言葉の上での戦いに喩えられ、これが行われている場所が戦場に喩えられている33行目以降でも、戦いの比喩が用いられている。

 

[4] Krapp and Dobbieではここで前の文が終わることになっているが、ここに訳したように区切った方が文脈的に自然なように思われるので、敢えてKrapp and Dobbie のパンクチュエーションには従っていない。

 

[5] 傲慢を誘発する、悪魔が放つ飛矢については、『ベーオウルフ』 1743b-44行にも言及されている。当時までの教会関連の文献における悪魔の飛矢への言及については、F. Klaeber, “Die christlichen Elemente im Beowulf,” Anglia 35 (1912), pp. 128-30 に簡潔な解説がある。

 

[6] ここに述べられた、他人に口論を仕掛ける人物の心境は、英雄ベーオウルフに口論をしかけたウンフェルスの心境とよく似ている(『ベーオウルフ』501b-05行を参照)。

 

[7] 神により与えられる、人間の魂あるいは精神を守る壁(そしてこれを守る番人)については、AmbroseHexameron に言及がある。詳しくは、M.E. Goldsmith, The Mode and Meaning of Beowulf (London: Athlone Press, 1970), pp. 194-96 を参照。

 

[8] 賢人の言葉がどこまでかということについては意見が分かれるところである。底本のKrapp and Dobbie では、賢人の言葉は56行目までとされているが、ここでは主に内容的な観点から、66行目までを賢人の言葉と解釈した。